「できる人」は「公正な人」

 国語の教科書は、道徳の資料として使えるものが少なくありません。今回は、光村の中学校の国語、昭和62年度〜平成4年度まで掲載されていた作品を使ってみましょう。

 

【対 象】 中学生

【ねらい】 クロスプレーへの判定を下す審判(若い警官)の気持ちと、警官に対する「僕」(選手・中学生)の気持ちを話し合うことを通して、正義を重んじ、だれに対しても公正、公平にすることの大切さに改めて気付くとともに、差別や偏見のない社会の実現に努めようとする心情を高める。4−(4)

【学習内容】

(1)審判(若い警官)の気持ちについて考えること

        セーフにしてやりたい気持ちとアウトと正しく判定しなければならないという気持ち

        同時に、自分なら公正に判定できる(してきた)かと(生徒が)自問する気持ち

(2)「僕」の気持ちについて考えること

        無謀な行為だった。

        調子に乗りすぎていた行為だった。

        「できる人」は、「自分の願いや希望とは無関係に」「公正な判断ができる人」である

        しかも、「じっくり考えて適切・的確な判断を下すことができるだけではなく、短時間で正確な判断を下すことができる人」である。

 

【資料】「クロスプレー」(光村ライブラリー中学校編2 所載)

光村ライブラリー・中学校編 2巻 車掌の本分 ほか

(1)広場で野球をするため、巡回の若い警官に審判を頼んだ。(時代は昭和30年前後、作者の回顧)

(2)審判は、最初的確な判定だけをしていたが、次第に、守備やバッティングの指導も始めた。

(3)そんな審判を不愉快に感じながらも、「僕」は最終回、ぼてぼてのゴロで出塁、3塁まで盗塁する。

(4)次。「僕」はピッチャーゴロで本塁へ全力疾走し、頭から滑り込む。

(5)審判は、顔面を紅潮させ、一瞬間をおいてから「アウト!」と判定する。

 

 

【学習過程】(50授業)

@        野球のクロスプレーの場面を紹介する。(5分)

        この手の資料の場合、野球のことをよく知っている子どもと知らない子どもの差が課題です。

        まず、「クロスプレー」と黒板右に大きく書いて、「今日は、クロスプレーを用いて勉強します」と話します。

        そして、プロ野球のホーム突入の場面を写真(または、ビデオでもいい。)で、端的に紹介します。

        大切なのは、「野球の短時間の紹介」、「判定の難しさへの関心、理解」です。

 

A        資料を読み、審判と「僕」の気持ちを話し合う。(35分)

        資料提示(10分)。少しずつ説明しながら読み聞かせると多少時間がかかることも……

        発問1:「クロスプレーへの判定を下すときの審判はどんなことを考えていたでしょうか。様々想像して出し合ってみましょう。」(15分)

        この話程度の問題状況なら、わざわざプリントに考えを書かせる必要はありません。あらかじめ書かせないと自分の意見が持てないだろうからと、丹念にプリントに書かせる授業は少なくありません。が、書かせることで、かえって意見を出しにくい雰囲気が生まれる場合もあります。ここでは、次々に指名(言いたそうな子どもには優先的に指名)しながら、受容的な雰囲気の中で、様々に審判の気持ちを想像することにしましょう。

        野球部の子どもの意見の取り上げ方(タイミングや内容)を工夫するのなら、やはり、プリントに書かせ、内容を把握しておく必要があります。

        ここでの話し合いのように、「できるだけ、多くの気持ちを想像させる」ことが大切な場合もあります。多くの道徳の授業の場合、感じたままを単に発表して終わっている場合が少なくなく、(それはそれでよい場合も多いわけですが、)自分がどう感じるかを超えて、その人の立場に立って、しっかり想像を広げさせることが大切な場合もあるわけです。特に、中学校の道徳の場合は、このような思考を鍛えることが大切だと常々考えています。

        もっと言うと、全体として、さまざまな意見が出て、黒板一杯になったということは確かに必要なのですが、それ以上に、一人ひとりの生徒がそれら様々な考えを理解できているか(しようとしているか)ということが問われるわけで、そのためにも、はじめから、できるだけ様々な気持ちを想像するという構えをもたせることが大切です。

        (1) ピッチャーゴロでホームに突っ込むことはあまりにも無謀である。(2)しかし、一生懸命走り、頭から突っ込んだ「僕」のプレーはスポーツをするものとして大変ふさわしい。(3) セーフなら同点となるチャンスである。(4)そんな「僕」と「僕」のチームのため、何とかセーフにしてやりたい。(5) キャッチャーのミットが「僕」の横っ面をたたいたとき、「僕」の手がホームベースにタッチした。(6)したがって、事実は、アウトである。(7)だから、「アウト」と言わなければならない。(8)しかし、迷う、などを出させながら、「一瞬の間」の審判の心の動きを出し合い、(4)と(7)を対比して板書し、それらに他の意見をくっつけながら、(8)の状況を把握させる。

        審判の気持ちに共感(みんなだったらどう判定していただろうかなどと問い返したりして、自分のこととして少し考える時間をとる)させた後、発問2。

        発問2:「『僕』の言う『できる人』とは、どんな人なのだろうか。話し合ってみよう。」(10分)

        僕は、本塁突入が、(1)無謀な行為だったことに気付いているし、(2)調子に乗りすぎていた行為だとも気付いている、ということを押さえた上で、『僕』の言うところの「できる人」について考えさせる。

        (1)野球のルールを正しく知っている、(2)守備やバッティングの指導が適切にできる、(3)審判が的確にできる、などが出てくるので、(3)の「審判が的確にできる」の「的確」とはどんなことかに焦点を当てて意見を出すように促す。

        (3)について(a)ルールに則った判定ができる、(b)公正な判断ができる、えこひいきがない審判ができる、(c)自分の願い・希望で判定を左右しない、(d)短時間で公正は判断ができる、などを引き出す。

        そして、話し合いの最後に、本時の学習内容の中心である「じっくり考えて適切・的確な判断を下すだけではなく、短時間で正確な判断を下すことが、できる人」だということを押さえる。出なければ、教師から話して聞かせる。

        黒板に色チョークで「自分の願い・希望で判定を左右しない」の部分、「短時間で正確な判断を下す」の部分などにサイドラインを引くなどして、適切に再確認させる。

 

B        自分の生活を振りかえる。(8分)

        発問3「あなたの中に『この審判のような心』がありますか?プリントに書けたら書きましょう。書けなければ、授業の感想、授業学んだことを書いてもいいです。」として、迷った判断や、公正にできた判断、(逆に不正をしてしまった判断)などについて想起させ、自分の考えを書かせる。

C        教師から話をする。(2分)

        最後の最後に、説話として、「クロスプレーとは、辞書的には、『野球で、一瞬アウトかセーフか判定しかねるような、きわどいプレー』の意味です。しかし、この文章でのクロスプレーには、「一瞬、不正をしようかそれとも公正にしようかと迷うようなきわどい場面」という意味もあると思います。つまり、この物語の中で、クロスしているのは、写真にあるような「走者とキャッチャー」ではなく、審判の、あるいは選手自身の心の中の「正と不正」「正邪」なのです。「みなさんは、これから何十年と「人と付き合い、生活する」していきます。その中で、公正公平な判断を迷わす『クロスプレー』に何度も出くわすはずです。そんな時、『クロスプレー』という資料を思い起こしてこの審判のような「できる人」になってほしいと願っています。」とゆっくり話す。

        結局この資料のよさは、「クロスプレー」という題名にあるのかな?と思います。それらも含めて、学級通信などで授業の様子について家庭に知らせ、理解と協力を得ましょう。